マンセルと鈴鹿と私 [F1]
今回の『NUNBER』は、久しぶりのF1特集である。しかも「永久保存版・F1鈴鹿」である。
第1特集は、「20年の軌跡」ということで、なんとマンセルにまで取材をしている。
マンセルは、鈴鹿ではいい結果は出せなかったが、思い出は忘れられない大切なものだという。
以前、このブログでも書いたが、私は87年と88年に鈴鹿にF1を見に行っている。
マンセルは、87年は予選1日めで負傷帰国してしまい、私が予選2日めにサーキットに着いたときには姿がなかった。
88年はピケと接触してリタイアしてしまった。その年のマンセルは、「ウイリアムジャッド」という戦闘力のまるでないマシンに乗っていて、優勝争いとは無縁のところにいたのだけれど、私は「なにかやってくれる」「いつか上位に上がってくる」と期待して見ていたのに。
その年の鈴鹿は、セナが初めてのワールドチャンピオンを決めたレースだったが、私はただただマンセルがリタイアしたことを悲しんでいた。
そのほか、そのころの鈴鹿で覚えていることを・・・
・ホームストレートエンドから、1コーナーに抜けるところは、観客席の通路が異常に狭く、なんと、観客がへいを壊して通路にして、通行していた(一度、サーキットの外に出る形になる)。
・ホームストレート以外の場所は、ほとんど自由席だった。87年の決勝はS字の入り口付近で見たが、けっこう傾斜がきつい草地で、滑りそうになりながら必死に観戦した。またその日は日本シリーズの巨人ー西武戦を同時刻にやっていた(西武が日本一になった。勝利投手は工藤)。近くの席の人が、ラジオで野球を聴いていた。
・いっしょに行くはずの先輩が来られず、自由席をダフ屋に売った。が、足元を見られて2000円くらいに叩かれた。
・宿が確保できず、2年連続で名古屋のサウナに泊まった。若くて元気だった。
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