光縁寺でお墓参り。 [京都]
二条城からは、歩きで四条大宮近くの光縁寺へ行った。ここは、山南敬助の墓があることで有名な寺である。
ちょうど20年くらい前、大学生のときに新選組史跡巡りをしたとき、偶然、見つけて訪れたことがある。
といっても、行ったことがあると覚えているだけで、それ以外のことはほとんど忘れていた。
四条通の1本南側の道を、西に歩きながら、寺を探した。私の記憶では、道の左側だったような気がしたのだが、実際は右側にあった。
寺の入り口は閉まっていた
で、寺に入ろうと思ったら、はり紙を発見。
見物、見学はお断りと書いてある
「見物 見学はお断りします お墓参りの方だけお入りください」といわれれば、私は物見遊山に来ているわけだから、入ってはいけないように思われた。が、昔も入っているし、入っていいんだよなと思っていたら、妻が「お寺の人が手招きしている」という。
そこで、小さな入り口から寺内に入ると、住職らしき人が待っていて、説明をしてくれた。
いちばん印象的だったのは、
「伊東甲子太郎や藤堂平助は、まずここに埋葬されたのに、あとで墓を暴かれた」
「うちは墓を暴かれたほうだ。だから、墓石には名前が入っている」
というような説明があったこと。
明治新政府から見れば、「賊軍の新選組隊士といっしょに、仲間を埋葬できるか」ということだろうが、光縁寺さんから見れば、官軍も賊軍も関係なく、死者を埋葬しただけである。
立場が違えば、見方も違うと痛感した。
そして、住職がおっしゃるには、
「ちょうど、今日は山南さんの法要をしているので、あとでお焼香していってください」
とのこと。歓迎されているのかと思いながら、本堂のわきを通って、まずお墓にいった。
右端が山南さんのお墓。左端はいろんな人が合祀されていた
お墓は、嵐電の線路際にあった。お墓の写真を撮るのは不謹慎かと思いながら、写真を撮って、手を合わせた。
そして、本堂に上がって、山南さんの位牌の前でお焼香をした。なんで法要をしていたのは聞かなかったが、ラッキーだと思った。
お焼香ができたことで、なんとなく、幕末という時代が、現代につながっていると感じたしだいである。
ちょうど20年くらい前、大学生のときに新選組史跡巡りをしたとき、偶然、見つけて訪れたことがある。
といっても、行ったことがあると覚えているだけで、それ以外のことはほとんど忘れていた。
四条通の1本南側の道を、西に歩きながら、寺を探した。私の記憶では、道の左側だったような気がしたのだが、実際は右側にあった。
寺の入り口は閉まっていた
で、寺に入ろうと思ったら、はり紙を発見。
見物、見学はお断りと書いてある
「見物 見学はお断りします お墓参りの方だけお入りください」といわれれば、私は物見遊山に来ているわけだから、入ってはいけないように思われた。が、昔も入っているし、入っていいんだよなと思っていたら、妻が「お寺の人が手招きしている」という。
そこで、小さな入り口から寺内に入ると、住職らしき人が待っていて、説明をしてくれた。
いちばん印象的だったのは、
「伊東甲子太郎や藤堂平助は、まずここに埋葬されたのに、あとで墓を暴かれた」
「うちは墓を暴かれたほうだ。だから、墓石には名前が入っている」
というような説明があったこと。
明治新政府から見れば、「賊軍の新選組隊士といっしょに、仲間を埋葬できるか」ということだろうが、光縁寺さんから見れば、官軍も賊軍も関係なく、死者を埋葬しただけである。
立場が違えば、見方も違うと痛感した。
そして、住職がおっしゃるには、
「ちょうど、今日は山南さんの法要をしているので、あとでお焼香していってください」
とのこと。歓迎されているのかと思いながら、本堂のわきを通って、まずお墓にいった。
右端が山南さんのお墓。左端はいろんな人が合祀されていた
お墓は、嵐電の線路際にあった。お墓の写真を撮るのは不謹慎かと思いながら、写真を撮って、手を合わせた。
そして、本堂に上がって、山南さんの位牌の前でお焼香をした。なんで法要をしていたのは聞かなかったが、ラッキーだと思った。
お焼香ができたことで、なんとなく、幕末という時代が、現代につながっていると感じたしだいである。
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