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井上陽水のコンサートで「いつ立つか」問題を考えた [ロック・フォーク]

19日、三軒茶屋の人見講堂で行われた井上陽水のコンサートへ行った。


コンサート風景は撮影できないので、CDと、それを入れる用の袋を撮影


今日は、テレビ用の撮影も行われるとアナウンスがあった。それも影響した(撮影の邪魔をしてはいけないという心理が働いたようだ)のか、静かな立ち上がりのコンサートであった。

1曲目は『青空ひとりきり』だった。かなり高音が使われる歌で、「笑える場所ならどこへでも〜ぅ行く〜」の「も〜ぅ行く〜」のところがとくに高い。ライブでは、そこを低く歌うことが多かったように思うが、今日はしっかり高音を出していた。かなり調子がよさそうである。

陽水によると、「前半は古い歌を歌う」そうで、初めはアコースティックギター2本でなつかしい歌を歌ってくれた。観客は、立つこともなく、手拍子も入れず(弾き語りには手拍子は入れにくいし)、おとなしくしていた。若い観客もいたが、やはり平均年齢は高め。みんな、スタミナを温存している感じだ。

けっきょく、途中でバックバンドが入っても、あまり手拍子も起こらず、立つという雰囲気にもならず、私にとってはありがたい感じであった。できる限り、立ちたくないからである。

そもそも、「コンサートで立つ」というのは、「興奮のあまり立ち上がった」「前の人が立ったのでしかたなく立った」というのが正しいと思うのだが、いつのころからか「最初から立っている」のが常識のようになってしまった。

それは、山下久美子を売り出すときに、売り出そうと思った人が「総立ちの久美子」という、一歩間違うととんでもないキャッチフレーズを考えたときから始まったように思う。「演奏者が出てきただけで興奮して立ってしまう」ということなのであろうか。まあ、「総立ち」がウリになったわけだから、それはめずらしいことだったはずで、それ以降、「立つのがお約束」になったと推測されるのである。

2時間も3時間も立つのは疲れるし、私はそれほど背が高くないので、ステージがよく見えなくなるしで、いいことはないのである。

ところがこのところ、陽水だのチューリップだのアリスだのかぐや姫だの、演奏者も観客も年齢が高いコンサートに行くようになると、「初めから総立ち」ということはなくなった。かぐや姫にいたっては、途中で休憩が入る。そして後半、盛り上がってくると、立ち上がるというわけである。

今回のコンサートも、アンコールになってから、立ち上がる人が現れた。それは理解できるので、いいと思うが、私は最後まで座って鑑賞させていただいた。1階席は総立ちだったようだが、私は2階席だったので、多少回りが立っても平気だったのだ。

以上はこれまでも考えていたことだが、今回、新しい感情も芽生えたのでお伝えしたい。

それは前半、陽水がギターで弾き語りをしているのを、手拍子も打たずに見ていたときのことである。いくら、8400円の入場料を払っているからといって、陽水が一生懸命働いているのを、手も動かさずに見ていては申しわけないのではないか、という感情である。

そう思わせるものが、陽水にはあるのであろうか? しかしけっきょく、私自身の行動は変わらず、「陽水が労働しているのを、ゆっくり座って見る」という贅沢をしてきたしだいである。










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